『耽羅国』(たんら国)は、現在の朝鮮半島沖の済州島にかつて存在した王国である。

古代から中世にかけて独自の文化を育み、百済、統一新羅、高麗に内属したが、1400年代には李氏朝鮮に完全併合され、事実上滅亡した。
当時の東シナ海の海上交通の要衝であり、海上貿易の拠点でもあった。

済州島の衛星画像
写真:済州島(現在名)

耽羅民族は、星主(国王)を中心として、独自の神話・称号文化をつくりあげていた。
耽羅国の記録は残っておらず、王国の発生や歴史・文化の詳細はほとんど不明とされる。
日本及び他国の複数の歴史文献に記録が残っており、別称は州胡、渉羅、純羅、度羅、耽牟羅、屯羅。
混血が進められた現在も済州島民の祖とされる。
そのためか、現在の済州島民も朝鮮本土とはやや性格が異なり、比較的温厚で生活様式も微妙に異なる。

日本の『古事類苑』には「耽羅ハ一二耽牟羅二作ル、或ハ度羅二作ル」と記載されており、『和漢三才図会』 にも記録が残る。
古代日本とも相当関係が深かったらしい。

緑豊かではあるが、厳しい自然と逃げ場のない島国、歴史的に翻弄され続けた環境が我慢強い民族気質を育んだ可能性が指摘されている。


写真:済州島海岸 一部


中央に位置するただ1つの山は韓国最高峰。
周囲には多くの火砕丘が存在する。

また、韓国で唯一の自然湖も存在し、ミカンの栽培もこの地方だけで行われている。


【耽羅国・言語】
・中国の史書『三国志』魏志東夷伝によれば、耽羅国の言語は韓族とは言語系統が違ったという。
(異説あり)

魏志東夷伝より(抜粋)
又有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髡頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、市買韓中。-

(州胡=耽羅国)

また現在も、済州島の使用言語は済州語または済州方言とされている。

使用言語はハングルではあるが、現在形・過去形、動詞・形容詞なども大陸方言とは全く異なり、音韻面でも法則性が本土とは異なっている。
もともとハングルは表音文字なので、発音はともかく表現できない文字はない。
単語面においては、済州語独特の単語(言葉)と語形があり、単語に及んでは日本語・満州語・中国語・モンゴル語からの借用語がより多い。
ハングルで表現されるものの、根底には耽羅国語系統が潜在的に継続して残存している可能性もある。

事実、済州語はあくまで方言とされる一方、2011年には、国際連合教育科学文化機関によって非常に深刻な危機に瀕した言語に分類されている。
つまり、言語として絶命の危機にあるということだ。

wikiによれば「協力なナショナリズム」のもと、大陸本土と同じ言語とされているが、その差異はあまりにも大きすぎるらしい。


【歴史・神話と伝説】
『高麗史』地理志2・耽羅縣によれば、日本の使者が開国させたとある。
(曰く「我是日本國使也」
最も、神話・伝説の域であるから、真実は闇の中ではあるが。

耽羅国は、それぞれ「高」「梁」「夫」の姓を持つ3人の神人が地中の穴より現れ、国の祖となったという「三姓神話」を起源に持つ。
比較的緑の豊かな土地だったらしく、ガイア信仰とはやや異なるものの、大地(自然)の中から神人(神ではなく、あくまで神人‐ひと‐が現れるという部分が興味深い。
あるいは、その前部分に繋がる神話もあったかもしれないが、失われてしまった。

高麗史より(抜粋)
初無人、三神人從地聳出其主山北麓有穴曰毛興、是其地也。長曰良乙那、次曰高乙那、三曰夫乙那、三人遊獵荒僻、皮衣肉食。一日、見紫泥封蔵木函、浮至東海濱、就而開之、函內又有石函。有一紅帶紫衣使者、隨來開函、有靑衣處女三人及諸駒犢五穀種、乃曰:我是日本國使也吾王生此三女、云西海中嶽降神子三人、將欲開國而無配匹、於是命臣侍三女而來、宜作配以成大業。」使者忽乘雲而去、三人以年次分娶之。・・・

(大雑把な意訳)
始めは無人であった。
3人の神人が北山麓の穴の中から現れた。
良(梁)乙那、高乙那、夫乙那の3人が人々の祖となった・・・・・(中略)・・・・
ある日、東の海から木の箱が現れた・・・乗っていたのは「我は日本国の使い也」という使者と3人の女性と駒(馬)と、五穀が搭載されており3人の神人たちは彼女たちを娶った。


神人たちが現れたという三姓穴の地

別の記録によれば、「我是日本國使也」ではなく、「我東海上碧浪國使也」とあるが、いずれにしても日本のことを指す。

面白いのは、日本の「古事記」には宗像三女神という3本の柱の女神信仰があり、大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として登場する。大和朝廷においても重視されてきた信仰であり、ムナカタの表記は胸形・胸肩・宗形と書く。
もともとは胸形氏ら海人集団の祭る土着の神であった。
それが神功皇后の三韓征伐の成功や、朝鮮半島との緊密化により、大きくクローズアップされた経緯を持つ。

関係性は不明であるが、想像力をかきたてられる部分ではある。


【歴史・他国の文献記録】
『三国史記』
476年:百済の文周王に朝貢
百済本紀4 耽羅國獻方物。王喜拜使者爲恩率
498年:百済の東城王に服属(百済に朝貢朝貢は変わらず)
(百済本紀4 王以耽羅不修貢賦親征至武珍州。耽羅聞之遣使乞罪乃止。耽羅即耽牟羅。
660年:百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって滅亡、耽羅国は混乱に陥る。
662年:新羅に服属。
新羅本紀6) 

『日本書紀』
古代日本から耽羅国へ遣耽羅使という使節団が派遣されていた記述がある。
耽羅国という記述が正式に登場するのは508年から。
継体天皇の時世に「南海中耽羅人初通百済国」とある。

662年、新羅に服属したものの、まだ混乱の最中にあったと思われる耽羅に、たまたま日本の遣唐使団の船が寄港している。海上交通の要となる島国・耽羅は唐の侵攻をおそれ、しばらく日本にも朝貢を送り続けたという。

当時の記録によれば、耽羅にはピョル主または星主、王子または星子、徒内と呼ばれる支配者層システムが既に存在していた。
これらの称号は新羅文武王が与えたとする文献もある。
いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続く。
耽羅星主=王である


9世紀には、商人・張保皐(生年不明 - 846年)が新羅王の認可を得て、新羅・唐・日本の三国との貿易を独占・拡大し繁栄させている。
これにより、航海安寧のための観世音菩薩を祀るための院を各地に配置し、三寺院の建立によって耽羅国文化は大乗仏教という信仰のもと当時の東アジアの宗教観と結びついていたことが判明している。


935年:新羅滅亡。耽羅はわずか数年のみ独立。
938年:星主・高自堅により高麗に服属。
1105年:高麗による「耽羅郡」の設置
1108年:さらに「済州郡」と高麗により改称させられる。

残念ながら、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れる。
しかし、まだ星主、王子など旧来の支配者の称号は認可されていた。



以下、耽羅国に関する記録を時系列に追う。
解りやすくするために、日本含む周辺国の歴史にも軽く触れる。

1121年:高麗により「済州」と改称、郡ですらなくなる。
1168年:高麗支配下で反乱がおきる(良守の乱)
1202年:煩石・煩守の乱
1267年:文幸奴の乱

当時の周辺国の政治情勢もあり、耽羅地意外の各国でも乱が勃発する。
「万里の長城」にみられるように、モンゴル族は周辺国には脅威のもとであり、高麗もモンゴルによる干渉により国政不安定であった。

1270年:乱暴に言えば、高麗にて三別抄による軍事クーデターが勃発。失敗し、関係者は済州島へと逃亡。

(三別抄・・・別抄とは高麗の軍隊とは別の組織であり、もとは政権を握った者の私兵集団であったらしい。
ライバルの蹴落とし・暗殺などや反乱の鎮圧も行うようになり、拡大していった。モンゴルからの脱走者も加わり、3隊の武装集団となり巨大化。政権の不安定さとともに力を増していった)

1271年:フビライ・ハーンがモンゴル帝国に元王朝を開く。(大元ウルス帝国)
1273年:大元ウルスは高麗を服属させ、済州島に逃れてきた三別抄を完全に鎮圧。
     一連の乱は済州島で終結する。(三別抄の乱)
1274年:大元ウルス帝国の日本侵攻が起きる。文永の役(1度目の元寇
1275年:大元ウルスが島を高麗から分離させ、名を耽羅に戻し、帝国の直轄地とする。
     この時、モンゴル馬を放牧するための牧場を開き、多数のモンゴル人が移住。
     また、この頃から済州島は流刑地となった。
1281年:弘安の役(2度目で最後の元寇)

(元寇・・・蒙古襲来ともいう)

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「蒙古襲来絵詞」より弘安の役の御厨海上合戦

1294年:大元ウルス元帝国が高麗に耽羅地を返還。

1368年:中国に明朝が成立。高麗は「親明反元」に転じ、モンゴルとは敵対する。
1374年:高麗より25,000人の軍隊が派遣され、牧胡を滅ぼす。(牧胡の乱)

(牧胡・・・100年前に移住し、土着したモンゴル人を指す。この乱は事実上の移住民族浄化(虐殺)である)

1392年:李成桂が高麗王位を簒奪。李氏朝鮮となりその支配下となる。
1404年:李氏朝鮮により星主、王子などの伝統のあった称号の廃止。
1416年:県が設置され、内地(韓国では陸地という)と同様の地方支配体制とされる。
1445年:根強く残っていた称号としての星主、王子なども再び廃止・禁止となり、文化としても完全に滅亡。
     

国としての形が消えた後にも、驚くべきことに耽羅人としての気質は、辛抱強く数百年もの間潜在的に続いていたらしい。
李氏朝鮮により儒教による朝鮮文化への同化政策、混血、併合が強制的に行われ、その後は完全に滅亡したとされている。

が、近年、「耽羅国」としてのかつての意識や「耽羅民族」としての矜持が垣間見える部分が指摘されつつあるらしい。かつて数百年もの間、秘かに星主などの称号が息づいていたことを考えれば、滅亡した王国の文化の解明の可能性を想像するだけでワクワクする。

もっとも、現在の政治情勢では望みは薄いかもしれない、「真実は小説よりも奇なり」でもあるし、妄想するぶんには罰はあたるまい。


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