シリアルキラー「ジョン・ゲイシー」の名はあまりにも有名。
別名「キラー・クラウン」(殺人ピエロ)。
子供好きで、子供達を楽しませるためにパーティ等でピエロに扮する事が多かった事から、後に殺人ピエロの異名がつけられた。

判明している犠牲者数は33人。
1972~1978年の6年間に殺された被害者の数である。

少年時代はボーイスカウトに入団しており、成人後は裕福な鳴った地元の名士となったゲイシーだが、ホモセクシュアリティの性癖を隠すために性的暴行を加えた少年らを次々と殺害していったとみられる。
遺体は全て自宅の地下または近くの川に遺棄。
彼の犯行が発覚した時、アメリカ社会は大きく震撼した。
事件の凄惨もさることながら、裕福な、地元での信頼の厚い、最も人生に成功したと思われた模範的市民が起こしたあまりにも反社会的な事件に、強く社会価値観が揺さぶられたのだ。


【少年時代】
1942年3月17日、イリノイ州シカゴにてポーランド系の父親とデンマーク系の母親の間に誕生。
ゲイシーの少年時代は、厳しすぎる父親からの虐待でほぼ埋め尽くされている。
さらに、父スタンリーには脳内腫瘍があり、そのため常に情緒不安定・癇癪持ちで家族に怒りをぶつけていたらしい。彼は幼いころから虐待のサンドバッグにされていた。

ゲイシーは先天的な心臓疾患をもって産まれている。父親はそれが許せなかった。
厳しい父は息子が幼い頃でも失敗を許さず、体罰を繰り返す。
心臓疾患のために体の弱かったゲイシーは常に罵声を浴びて成長した。
当然のように少年はパニック障害になり、心臓発作も頻繁に起こしていたらしい。が、父親に責められるのが嫌なあまりギリギリまで体調不良やストレスを我慢、その結果度々失神を繰り返している。
母親は父親にゲイシーの体をいたわるように懇願していたが、父親は意に介さなかった。むしろ、気絶する息子に怒りを倍増させていったきらいがある。

ゲイシーは14~18歳の期間に、1年以上の入院をしている。
高校も転校をくりかえし、結果として普通高校を卒業できず、職業訓練校に進む。
ここでの成績も優秀であった。
虐待されて育った子供がそうであるように、ゲイシーもまた父親の気を引こうと必死であった。
父のお気に入りの民主党候補議員を共に応援していたが、兵役審査が病歴のために免除になると、再び父親の憎悪に火がつきだす。

体の弱いゲイシーを父は認めず、男ではない「オカマ」と幼少の頃から馬鹿にしていた。
年頃になり、初めて女性と性交渉に及んだ際に、ゲイシーは緊張のあまり意識を失ってしまった。
経緯を知った父親は勝ち誇ったように、さらに息子を貶め罵声を浴びせ続けた。
だが、それでもゲイシーは父親の愛情を求めていたようである。


【成人後】

20歳になる頃、さすがにゲイシーにも自我が芽生え、父と口論の末に家を飛びだした。
ラスベガスで3ヵ月間、死体葬儀屋で住み込みのアルバイトをしている。
後に、マスコミによって面白おかしくエピソードが付け加えられていったが、実際のところはキツイ仕事で誰もやりたがる者もなく、身寄りも知人もいないゲイシーができる仕事がこれしかなかったというところだろう。

(火葬する日本とは違い、葬儀屋では「血抜き」を行い遺体に防腐処理を施す。
さらに盗難防止の為に夜間も監視が必要)


母親により家に戻されたゲイシーは、ビジネスの専門学校へ入学。
自信を取り戻したのか、これより彼の人生は一気に順調に進む。

卒業後に就職した会社では群を抜いて営業トップとなり、若くしてエリアマネージャーとなる。
また、州の青年会議所に所属し、優秀な成績をあげ、たった2年で州の3番手の活動実績をつくりあげ、地位もあがっていった。
22歳で結婚し、アイオワ州に移住。
妻の父親の所有するケンタッキーフライドチキンの店3軒のマネージャーを務める。
ビジネスだけではなく、地域活動にも力を入れ、人望も厚かった。
「眠らない男」と噂されるほどに、精力的に活動しボランティアにも積極的に取り組む。
アイオワでも青年会議所に所属し、次々とプロジェクトを立ち上げ、実行してゆく姿に、否応なく周囲の期待と信頼は増々高まっていった。

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だが、一方で実の父親の呪縛は解けておらず、逆に深みに嵌っていったらしい。
ゲイリーは結婚直前に酒に酔って、男同士のオーラルセックスを経験している。初めは軽いおふざけ程度であったのかもしれない。よくある悪友同士のサプライズだったのかもしれない。
(ゲイリーは、初体験のトラウマからか女性関係にはひどく奥手だったらしい)
彼は父親スタンリーの言葉通りになった事に嫌悪感を感じ、恐怖を抱いたが、やがて1人の未成年の少年に金を払い、性交渉を持つようになる。

26歳になったゲイリーは、青年会議所の有力会長候補でありながら選挙目前に性的虐待で逮捕される。
少年が訴えでた為であり、判決は懲役10年であった。
服役中に妻が離婚を提訴、受理によりゲイリーの意志に関係なく離婚が成立。
しかし、ここでも彼は優秀さを見せる。
収監中、わずか7ヵ月で高校卒業の資格を取り、大学の通信教育で心理学の単位も取得。驚くことに刑務所内の青年会議所の法律相談員として、2つの法案を州議会に通す。
その実績と態度に、わずか1年半ほどで出所。実家のイノリイ州に戻る。

服役中に、父親スタンリーは死亡した。


【連続殺人の発生】

釈放から6ヶ月後、再びゲイシーは少年に対する暴行容疑で逮捕された。
しかし、原告となるべき少年が裁判に現れず、不起訴となる。
その後、ゲイシーは次々と少年を引っかけるようになる。
殺人のきっかけは、偶然拾った少年が翌朝、朝食を作っている最中にナイフを持ったままゲイシーを起こし、恐怖からパニックになって殺してしまったとされている。死体は床下に隠した。以降、殺人が習慣化する。

29歳でゲイシーは、家を購入し会社を興す。
ビジネスに才能のあった彼は会社が軌道にのると、高校時代の知人の女性と再婚、連れ子2人の父親となった。再び地域の信頼と尊敬を集める存在となり、ピエロの「ポゴ」というキャラクターに扮し施設を訪れるなど子供達の人気者となる。
ゲイシー本人の言葉によると、「ポゴ」に変身すると安らぎを感じることができたという。

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余談であるが、地元の民主党のメンバーとしても地位を築き上げ、当時のカーター大統領の夫人と握手している写真が残っている。いかに、ゲイシーの信頼と人望が厚かったかの証でもある。

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しかし、2重生活は続く。
手口は毎回ほぼ同じで、ポルノを観ようと少年を誘い、地下室に監禁。
手錠をかけ、凶器で脅しつつレイプし殺害。殺害方法も、少年らが首にかけていたロザリオ(十字架)にボールペンを引っかけ、ゆっくりねじって絞殺してゆくという残酷なものであった。
死体は床下に埋め、石灰や塩酸をかけて隠した。

4年後、ゲイシー33歳。再び離婚。
以降、彼の犯行はエスカレートしてゆく。



【犯行の発覚】

1978年、ゲイシー36歳。
連続殺人の衝撃があまりにも大きくて霞がちだが、彼は麻薬犯罪にも手を染めていた。
自信の表れか慢心か、彼自身の行動も反モラル的になってゆく。
警察からも監視されるようになるが、「地元の有力民主党員」の地位を利用して人権侵害の訴えを起こしている。
ゲイシーの会社にアルバイトの面接に行ったまま、行方不明になった15歳の少年がいた。少年の捜査をしていた警部補は、ゲイシーの自宅を訪れた際にその異様な雰囲気に驚く。
遺留品に発見もさることながら、性的玩具の多さ、何より異様な臭気に圧倒されたという。
以後、チームが組まれ、本格的にゲイシーの捜査が始まる。

まず、マリファナの不法所所持でゲイシーを逮捕。家宅捜査令状をもとに彼の自宅は強制捜査を受けた。
その結果。
29人の遺体が床下から発見された。全てきちんと整列・整頓されて埋められていた。他に4人、スペースがなくなったので近くの川に捨てられた事も明らかになる。行方不明だった少年も、川に遺棄されていた。

長期間事件が発覚しなかったのは、被害者の多くが男娼であったことが大きい。だが、その数人は会社のアルバイトの青年であった。
腐敗が進み、身元のわからない遺体が9体。年齢は9~20歳と様々であった。


遺体の腐敗に捜査は難航し、警官達は危険な状態となる。
メタンガスが充満し、掘り返された遺体は空気に触れさらに腐敗してゆく。
危険な物質や毒性の強い細菌も検出され、1度臭気に触れた衣服は着用不可能になり焼却処分された。
郡からは使い捨てのジャンプスーツが支給され、わずかな傷でも負傷した捜査官は感染の危険性から現場から外された。
あまりの腐敗臭とガスの発生に、死体保管所はガス室のようだったという。



【逮捕後】
連続殺人鬼ジョン・ゲイシーの逸話は収監後も続く。
精神鑑定を受けたゲイシーは多重人格を主張、無罪を訴えるが陪審は訴えを退け有罪判決を言い渡す。

だが、アメリカの司法裁判のシステムをうまく利用して、というべきだろうか。
1980年に12回の死刑判決、21回の終身刑判決を受けつつ、莫大な資産を利用して20回以上上訴を行い、前回と同じように模範的な囚人として、のらりくらりと刑をうまく免れてゆく。
自分のライバルや警察の陰謀による冤罪であると主張し、死刑制度の違憲性についても上告を繰り返す。
それらの行為は、なんと刑務所外のアメリカ社会にも影響を及ぼしてゆく。
時には、ゲイシーの死刑を願うデモ行進が起きたが、確実に彼のファンも増加していった。

実はゲイシーのIQは非常に高く、脳障害の兆候は認められなかった。その一方で思考の混乱から精神分裂か妄想症の可能性も強く指摘されている。

極めて凶暴な歪んだ性欲を持つ側ら、ごく普通の結婚生活も営んでいる。
父親との確執、虐待、トラウマといった心身症と神経症が土壌を育んだとも研究されたが、その異常性の説明にはならない。
異例ずくめであり、多くの研究者、好奇心の的となる。

ゲイシーには絵の才能もあり、好んでピエロの絵を描いていた。現在でも高額で取引されている。

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やがて、ゲイシーに興味を持つ18歳の青年が現れ、文通を始めた。

電話でもやりとりを行うようになり、青年は直接面会に訪れる。
模範囚であったゲイシーは紳士的にふるまったが、2人きりの面会時、監視カメラの死角で襲い掛かる。
幸い看守が発見しこの事件は未遂に終わるが、この件で模範囚としての化けの皮は完全に剥がれおちた。


【死刑】
ゲイシーの死刑実行は1994年、5月10日。
薬物投与による死刑実行だったという。
通常、薬物による死刑は平均で7分前後で死亡するという。
しかし、ゲイシーの場合は20分近く苦しんで絶命した。
何等かの手違いがあったのか、それとも偶然なのかははっきりしていない。



世の中には様々な人間がおり、連続殺人犯マニアという人々がいる。
ゲイシーに殺されかけたジェイソン・モスという若者も、チャールズ・マンソンやジェフリー・ダーマーといった犯罪者たちと文通、面会し深層心理の研究を行っていたという。著書「連続発人犯の心理分析」を残したが、後に自殺した。
ゲイシーを題材にした映画や小説も多く、スティーヴン・キングのホラー小説「IT」に登場する殺人鬼ペニーワイズのモデルとなった事は有名である。


上記でも書いたが、刑務所で彼の描いたピエロの絵画は連続殺人者犯マニアには大変な人気があり、現在でも展示会が開かれたり、高値で取引されている。
ジョン・ゲイシーはピエロの絵の中に、何を託したのだろうか。

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