師匠シリーズ

669 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:04:09 4kHIdhSj0
顔だ。 顔入道。
生首のように洞窟の奥に詰まっている岩。
人工の光に照らされて、その白い表情が浮かび上がる。
人間のものというには大きすぎるその眉間には
皺が寄り、口はへの字に結ばれて、鼻の頭にもヨコに皺が入っている。
そして、その目はぐりんと剥かれて、こちらを凄い迫力で睨んでいる……
叫びそうになった僕を抑えてくれたのは、
シゲちゃんの一言だった。

「よかった。まだ怒ってない」
ふっ、と息が漏れる。
シゲちゃんの声も震えているけど、力強い言葉だった。
確かに顔は怒りを堪えているように見える。
シゲちゃんは「こないだきた時も、こんなだった」と言って、強張った顔で笑う。

顔入道は良くないことが起こる前触れに、怒りの顔に変わるという。
岩に描かれた顔の表情が変わるなんてあるもんかと思うのとは別に、
心のどこかでは、
ひょっとしてと怯えざるを得なかったのだけれど、
これを見ると、タロちゃんが洞窟に入るのを嫌がった訳がわかる。

昔からそうだったのか、
それとも、お祭りとして顔の塗り替えがされていた時に、最後の誰かが
こんな風にしてしまったのかは分からないけれど、
まるでこれから怒り出す寸前のような顔をしているのだ。
これではもう一度見にこようという勇気はなかなかわかない。

しまった。想像してしまった。
僕の膝はぶるぶると震え始める。
今にも顔が変わって怒り出すところを想像してしまったのだ。
もういけない。だめだ。
のっぺりした丸い岩に描かれただけの顔がぐわぐわと蠢いて、なにか恐ろしい怒鳴り声を上げる、
そんな想像が頭の中で繰り返しやってくるのだ。

目には炎が宿り、引き結ばれた口は開いて、赤い喉と牙が……

空気はシーンと冷えている。
張り詰めたような静けさだった。
対峙する白い顔のすぐ下には尖った石が突き出ていて、その石には白いものがこびりついている。
岩に顔を描いた時の塗料がついてしまったに違いないのだが、
その時の僕には、まるで折れた牙のようにしか見えなかった。


671 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:11:15 4kHIdhSj0
僕はシゲちゃんをつつき、「行こうよ」と言った。
シゲちゃんも「あ、ああ」と頷いて後ずさりを始める。
だんだんと遠ざかり、顔が曲がり角に隠れて
見えなくなるまで、僕らは奥へ懐中電灯を向けたまま目を逸らせなかった。
目を逸らしたとたんに、
その怒りが爆発するような気がして。

その顔の向こう、
今は誰も行けなくなってしまった洞窟の
最深部には、お坊さんの即身仏があるはずだった。
けれどその時は、そんなことまったく頭の外だった。
顔だ。顔。顔。顔入道。
曲がり角で顔が見えなくなると僕らは振り向き、早足で元きた道を戻り始めた。

僕が先頭でシゲちゃんがシンガリ。
絶対にシンガリはいやだ。
白くて長い手が洞窟の奥から伸びてきて、足首をガシッとつかまれそうで。
でも懐中電灯を持っているのはシゲちゃんだった。
一本道だけれど完全に真っ暗な洞窟だったので、足元を照らさないと危ない。
息を殺しながら緊張して歩いていると、シゲちゃんが懐中電灯を渡してくれた。
ギリギリすれ違うくらいの広さはあったのに、
シゲちゃんは明かりをくれた上、シンガリも引き受けてくれたのだ。
親分だった。
やっぱり。

なんどか躓きそうになりながらも、ようやく僕らは洞窟の外へ出てこれた。
僕らの姿を見て、タロちゃんがビクッとする。
僕は息を整えながら、なにごともなかったことに安堵していた。
そしてシゲちゃんを振り返り、親指を上げて見せる。
シゲちゃんもニッと笑うと、同じように親指を上げた。
これで仲間だ。そう言われた気がした。

「どうだった」とタロちゃんが訊く。
「どうってことない。こないだと一緒」と、シゲちゃんはタロちゃんの背中を叩く。
「トカイもんが入ったんだ、約束通りお前も行けよな」
と言われて、
タロちゃんは生唾を飲みながら、こっくりと頷いた。
やっぱり一人で?と言いたげな視線をシゲちゃんに向けながら、
未練がましそうに懐中電灯を一本携えて、
タロちゃんは入り口に歩を進める。
可哀相だが仕方がない。
シゲちゃんも付いて行ってあげる気はないようだ。


673 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:13:58 4kHIdhSj0
観念したタロちゃんが洞窟の中に一人で消えて行き、僕らは外でじっと待っていた。
そのあいだ、ふとあの赤い着物の幻のことを考える。
洞窟の奥は顔入道が塞いでいて、
そこまでの道は枝もない一本道だったし、気がつかずにすれ違うことだって出来ない。
なのに僕らは結局、洞窟の奥ではなにも見なかった。
ということは、やっぱりあれは幻だったんだ。

怖さのせいで見えるはずのないものを見てしまう、
というのはたまにあるかも知れないけど、
あの洞窟に相応しい幻は、お坊さんの姿のような気がして、
どうしてあんな赤い着物を見てしまったのか分からず、その理由をぼんやりと考えていた。

いきなりだ。
「ギャーッ」という声が洞窟の中から聞こえた。
僕らは思わず身構える。
シゲちゃんが懐中電灯を洞窟の奥に向けて、「どうした」と叫ぶ。
かすかな空気の振動があり、奥から誰かが走ってくるのが分かる。
緊張で手のひらに汗が滲む。
これからなにか恐ろしいものが飛び出してくる気がして、足が竦みそうになる。
シゲちゃんがゆっくりと洞窟の中に入ろうとする。
僕はそれを遠くから見ていると、暗闇の中から揺れる光が見えて、
次の瞬間なにかがシゲちゃんを弾き飛ばし、僕の方へ向かって突っ込んできた。
慌てて身体を捻ってそれを避ける。

その後ろ姿に、あ、タロちゃんだ、と思うまもなく、
それは目の前の崖で止まり切れずに、足を滑らせて転がり落ちて行った。
悲鳴が遠ざかって行き、
すぐに身体を立て直したシゲちゃんが崖に駆け寄る。
すぐに転がる音は止まったけれど、ちょっとした高さだ。ただでは済まないだろう。

けれど、その下から泣き声が聞こえてきたので僕はホッとした。
シゲちゃんが「待ってろ」と言って、崖を回り込んで助けに行く。

僕も追いかけようとして、ギクッと背後を振り返る。
洞窟の口がさっきと同じように開いていて、
その奥にはなにごともなかったかのように、暗く静かな闇があるだけだ。
でもタロちゃんは、なにかに怯えて逃げてきた。
そして勢いあまって崖へ。
僕はガクガクと全身が震え始め、
なんとか視線を洞窟から逸らし、そこから逃げるようにシゲちゃんを追いかけた。


675 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:17:39 4kHIdhSj0
全身を強く打ったタロちゃんをシゲちゃんが担いで、僕らは必死に山を降りた。
公衆電話の置いてある所までたどり着くと、
そこから救急車を呼んだ。

深夜だったけれど、シゲちゃんの家とタロちゃんの家にそれぞれ連絡が行き、
僕らはこっぴどく叱られて、
病院に駆けつけたタロちゃんの家族に謝ったり、事情を聞かれたりして、
家に帰って布団に入ったのは明け方近くだった。
興奮していたけれど、
よほど疲れていたのか僕は泥のように眠った。

昼ごろに目が覚めてから、布団の上に身体を起こした。
昼に起きるなんてめったにないことで、
やっぱり朝とは違う感じがして、寝起きの清清しさはない。

僕は昨日の夜にあったことを思い出そうとする。
あの顔入道の洞窟で、僕とシゲちゃんは怒りを堪えているような顔を見た。
そして、入れ替わりに入っていったタロちゃんが、
悲鳴を上げて飛び出てきて、勢いあまって崖から落ちた。
幸い怪我は思ったほど大したことがなく、
右肩の骨にちょっとヒビが入ってるけど、
あとは打撲だそうで、しばらく入院したら戻ってこられるとのことだった。

だけど、僕には気になることがあった。
痛がって呻くタロちゃんをシゲちゃんが担いで山を降りていた時、
タロちゃんが繰り返し変なことを呟いていたのだ。
怒った。
顔入道が怒った。
そんなことをうわ言のように繰り返していたのだ。
それを聞いた時の僕は、
とにかくあの洞窟から早く遠ざかりたくてたまらなかった。
今にも巨大な顔が、憤怒の表情で闇の中を追いかけてきそうな気がして。

夜が明けて冷静になった今振り返ると、不思議なことだと思う。
あの洞窟は一本道で、ほかの場所には通じてないはずなのだ。
僕とシゲちゃんが顔を見てから、
タロちゃんが入れ替わりに洞窟に入って行くまで、
ほとんど時間は経ってないし、
僕とシゲちゃんが外で待っているあいだ、当然ほかの誰も入ってはいない。

だからタロちゃんは一人で洞窟に入り、
行き止まりの場所で顔入道を見てから、戻ってきただけのはずなのだ。
僕らが見た時には怒っていなかった顔入道が、
タロちゃんの時には怒っていたなんて、そんなことあるはずがない。
考えてもよくわからない。
タロちゃんは一体なにを見たのだろう。
聞いてみたいけれど、今は隣町の病院だ。
そんな変なことを聞きに行けない。


677 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:21:54 4kHIdhSj0
「起きたか」
考え込んでいると、おじさんがやってきて「飯を食え」と言う。
シゲちゃんも起きてきて一緒に食べていると、おじさんにもう一度昨日のことを聞かれた。
「どうして夜にあんな山に登ったのか」と。
半分はお説教だ。
僕らは口裏を合わせるように、顔入道のことは言わなかった。
そうだろう。秘密を守るのは仲間の証なのだから。
ただ探検したかった。
もうしない。ごめんなさい。
そんなことを何度となく繰り返して、乗り切るしかなかった。

昼ご飯を食べ終わると、じいちゃんの部屋に呼ばれた。
僕とシゲちゃんは正座をさせられて、
じいちゃんの険しい目にじっと見つめられる。
お説教なら別々にせずに一度にしてくれよ、と思いながら俯いていた。

「顔入道さんだな」
と、じいちゃんは言った。
僕は驚いて顔を上げる。
じいちゃんは顔入道のことを知っていたらしい。
「わしらも子どもの時分に、見に行ったものだが」と、眉間に皺を寄せた。
そして、「あれは、おそろしいものだ」と呟く。

どうやらじいちゃんの子どものころにも、顔入道が怒ったことがあるらしい。
その時にはなにか大変なことが村に起こったそうだが、
詳しくは教えてくれなかった。

顔入道さんにはもう近づいてはならないときつく厳命されて、僕らは釈放された。
さすがにシゲちゃんもしょげかえっていて、元気がなかった。
竹ヤブ人形事件の時よりも、大ごとになってしまったからだ。
次のイタズラを思いついて
目の奥がぴかりとするのは、まだ先のことだろうと僕は思った。

その日は結局、夏休み学校には行けなかった。
午前中を寝て過ごしてしまったのだから仕方がない。
僕は昨日あったことを先生に聞いてほしかった。
こんな不思議なことが世の中にあるんだということを。

けれど同時にこうも思う。
先生ならこの出来事に、
僕には思いもつかなかったような答えを見つけ出してくれるんじゃないかと。


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