師匠シリーズ

679 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:24:32 4kHIdhSj0
前に一度、午後にもあの学校に
様子を見に行ったことがあるけれど、先生はいなかった。
お母さんにつきそって、病院にでも行っているのかも知れない。
時間がゆったりと流れる夏の家の中で、
早く明日にならないかと僕はやきもきしていた。

シゲちゃんはその後、
元気がないなりにどこかに遊びに行ってしまったが、
僕はそんな気になれず、家で宿題をぽつぽつと進めていた。
けれどだんだんと心の中にある欲求がわいてきて、それが大きくなり始めた。

昼間なら、あんまり怖くないよな。
そんなことを思ってしまったのだ。
つまり顔入道を、タロちゃんが見たものを確かめに行こうというのだ。

さすがにこれは悩んだ。
じいちゃんに『あれは、おそろしいものだ』なんて言われたばかりなのだ。
でも、見たかった。
知りたかった。
タロちゃんは一体なにを見たのか。

一度逃げ出した場所にもう一回挑戦することで、手に入るものもある。
例えば、鎮守の森の奥に進むことで先生に会えたようにだ。
バシン、とノートを閉じた。
ようし、やってやる。
僕は立ち上がった。

夜と昼間では山道の印象が違っていて、
何度も迷いそうになりながらも、
僕はなんとか顔入道の洞窟にたどりついた。
ぜえぜえと息が切れる。
昨日の夜よりしんどいのは、
太陽の光が木の枝越しに凶暴に降り注いでいるからだろう。
樹木が開け、山肌が見える場所で僕は額をぬぐう。

小さな崖になっている場所が見える。
昨日タロちゃんが飛び出して落っこちた所だ。
タロちゃんがゴロゴロと転がって、身体ごとぶつかって止まった岩もその先にある。
そのどっしりした岩の形を見ていると、今さらながらゾッとする。

タロちゃんはそんなにまで怯えて、
いったいなにから逃げたかったのだろう。
昼間でも暗い口を開けて洞窟が僕の目の前にあった。
覚悟を決めていてもドキドキしてくる。
顔入道は怒っているかも知れない。
それがどんな顔なのかあれこれ想像する。
今のうちに最悪の事態を想定しておけば、ビビって崖から落っこちたりはしないだろう。


680 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:27:57 4kHIdhSj0
あらゆる怒りの表情を十分にイメージしてから、僕は深呼吸を五回した。
五回した後でもう三回して、
それからもう後四回くらいしてから、洞窟に足を踏み入れた。

太陽の光が届かないので中はひんやりしている。
外の熱気が追いかけてくるけれど、
それも何度か角を曲がると去って行ってしまった。

リュックサックから懐中電灯を取り出す。
シゲちゃんが昨日持ち出したやつが見あたらなかったので、
押入で見つけたもう一回り小さいやつだ。
心細いような光の筋が目の前を照らすけれど、
洞窟の中はぐねぐねと折れ曲がっているので見通しが悪く、
いつ曲がり角の向こうに、なにか恐いものが飛び出してくるか分からない。
首筋のあたりをぞわぞわさせながら、
僕は洞窟の奥へと進んでいく。

『岩でできた顔が怒り出すなんてあるわけない』
そんな考えが浮かぶたびに、
『いや、この世ではなにが起こるか分からない』と気を引き締める。
そう。なにが起こるか分からないのだ。

隠れたような枝道がないか慎重に探りながら、
僕は深く深く洞窟へ潜って行った。
そしてどこか見覚えがある曲がり角を回った時、目の前に白いものが飛び込んできた。
ビクゥッ、と背中が伸びる。
顔だ。
顔入道。

昨日と同じように洞窟にみっしりとはまり込んで、とおせんぼをしているその白い顔を見た瞬間、
僕は恐怖というよりも吐き気を催した。
なんだこれは?
あれほどイメージトレーニングを繰り返したにも関わらず、
まったく想像していなかった不気味な姿がそこにあった。

足下から天井まで伸びる巨大な顔は、笑っていたのだ。
目を細め、口元の皺は縦に真っ直ぐではなく、横にふっくらと広がっている。
ほっぺたは丸々として、口の端は優しげに上がっている。
これこそが、この洞窟の先で即身仏になっているというお坊さんの、普段の顔だったのだろうか。

けれどそのえびす顔がもたらす印象は、吐き気を催すような奇怪さだった。
僕とシゲちゃんは二人でここまできて、『怒りをこらえる顔』に会った。
そして、その後入れ替わりにタロちゃんは一人でここまできて、『怒った顔』に会ったという。
そして次の日の昼、
今僕は笑っている顔と向かい合っている。


682 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:31:44 4kHIdhSj0
これはいったいなんなのだろう。
足がガクガクと震える。
目の前で白い顔が、ぐにゃぐにゃと飴のように形を変えていくような錯覚がある。
……でもそれは本当に錯覚だろうか。

僕は泣きそうになりながらも、
『これだけはする』と決めていた確認作業を断行した。
生唾を飲みながら、震える足を叱咤して少しずつ顔に近づいていく。
顔が大きくなっていくにつれ、
この狭い空間が、この世から切り離された異空間のような気がしてくる。
どんなことが起こっても不思議ではないような。

それでも僕は自分の顔を突き出し、顔入道の表面に光をあてる。
よく見ると、ところどころボロボロと塗装が剥げ、白い顔にも黒い汚れが目立った。
その地肌は確かに岩で、
その上に描かれた顔は、昨日今日のものではないのは明らかだった。
何年も、いや何十年も前から同じ顔で、
ここにこうして洞窟に挟まっているはずのものだった。

顔の真下には、折れた歯のような塗料のついた尖った岩。
笑っていても、ついさっきまで牙のあった証のように青白く光っている。
僕は今までとは違う別の寒気に襲われ、とっさに逃げ出した。
くるりと振り返って、きた道をひたすら戻る。
うわあ、という叫び声を上げたと思う。
ギャー、だったかも知れない。
とにかく、僕は何度も転けそうになりながら走り続けた。
白い手が追いかけてくる幻想が、昨日よりもくっきりと頭に浮かんだ。
恐い。恐い。
なんだこれ。なんだこれ。
それでも、射し込む太陽の光が道の先に見えた瞬間にブレーキをかけた。
洞窟の外まで飛び出した僕は、崖の前でピタリと止まることができた。

昼間だったから良かったのだ。
夜だったら、洞窟の続きのような暗い空の下に、両手両足を泳がせていたかも知れない。
背中に異様な気配を感じる。
ハッと振り返ると、洞窟の奥に赤い着物の裾が翻ったような気がした。
それはすぐに記憶の彼方へ消えて、
現実だったのか幻だったのかわからなくなってしまう。
僕はガチガチと震えながら、洞窟の入り口から中へ小声で問いかけた。
「誰かいるの」


683 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:36:03 4kHIdhSj0
いるはずはなかった。
中は一本道なのだ。
行き止まりにはあの顔入道の岩がつっかえている。
がっしりと地面にも壁にも天井にも食い込んでいて、とても動きそうには見えなかった。
だから洞窟の途中に誰もいなかったからと言って、
その岩の奥に誰かが隠れているはずはない。

こういうのをなんて言うんだっけ。
こないだテレビでやっていた。
そう。密室。
密室だ。
密室の中には、生きたままミイラになったお坊さんがいるはずだ。
真っ暗闇の中で座禅を組み、
もう二度と変わらない表情を顔に貼り付けたままで。
その顔は怒っているのだろうか。
笑っているのだろうか。
ああっ。

なんだかたまらなくなり、僕は逃げ出した。
崖を回り込み、山道を駆け下りる。
振り返らずに。
汗を飛び散らせて。
ぜいぜい言いながらひたすら走り続けていると、頭が勝手に想像し始める。

顔入道が怒ったら、悪いことが起きる。
じいちゃんが『あれはおそろしいものだ』と言っていた。
本当なのかも知れない。
ひょっとして、タロちゃんが崖から落ちたのだって、
その『悪いこと』に入っているのかも知れない。
目に見えない手が、崖の前でその背中を押したのかも知れない。

でもさっき見た顔入道は笑っていた。
けれど、それがなにか楽しいことを暗示しているような気がしない。
いつもは誰もこないはずの暗い洞窟の奥底で、
どうして笑っていたのだろう。
想像が顔入道の笑顔を大げさに変形させ、視界一杯に、
いや頭の中一杯に広がって行く。
その奇怪な姿を僕は振り払おうと
振り払おうと、木の根を飛び越えながら駆け続けた。

その夜、晩ご飯を食べている時に
おじさんから、タロちゃんが三,四日後には退院できるらしいと伝えられた。
僕もホッとしたけれど、
首謀者であり親分でもあるシゲちゃんが一番ホッとした顔をしていた。


685 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/28(金) 23:39:39 4kHIdhSj0
食べ終わってから僕はシゲちゃんに、
顔入道の洞窟にもう一度行ったことを話そうと思ったけれど、
「疲れたからもう寝る」と言って、
あっというまに布団に入られてしまった。

僕はどういうわけか、
顔入道の笑顔のことをほかの人に話すのが妙に恐い気がしたので、
「寝ちゃったからしかたないや」と自分に言い訳をしながら、
居間でテレビを見ることにした。

ブラウン管の向こう側ではプロレス中継をやっていた。
恐い顔の外国人レスラーがマットの中や外で大暴れしていたけれど、
刻一刻とその表情は変わり、どの瞬間にも同じ顔はなかった。
睨む顔、強がる顔、痛がる顔、笑う顔、吠える顔。
繕い物をしているばあちゃんと並んで、僕はテレビの前にずっと座っていた。

次の日、少し元気になったシゲちゃんが、
朝から外へ遊びに行ったのを見送ってから、僕は夏休み学校へ行く準備を始めた。
先生にどうやって洞窟のことを話そうか考えながら、
一応宿題をやるふりをしていると、ばあちゃんがハタキを持って部屋に入ってきた。

パタパタと家具や壁を叩いて回り、ちょっと重い物をどかす時に
「エッヘ」と言いながら、小一時間ハタキをかけていた。
僕は早く出て行きたかったけれど、なんとなくタイミングを失って、
どんどん埃っぽくなっていく部屋の中でイライラしていた。
すると、一通りハタキを掛け終わったのか、
ばあちゃんが腰を叩きながら目の前に立つと、僕の顔をまじまじと見つめてきた。
そして、「あんた、つかれちょらんか」と言った。

この二,三日のあいだは、確かに色々あって疲れている。
それでもタロちゃんがすぐ退院できると分かったし、
昨日会えなかった先生に早く会いたかった。
会って話をしたかった。

僕は「別に」と言って立ち上がり、
「散歩してくる」とばあちゃんを残して部屋を出た。
外はあいかわらずカンカンと日が照っていて、
半そでから伸びる腕の何重にもなった日焼けの跡が疼いた。


694 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/29(土) 00:01:43 4kHIdhSj0
顔見知りのおばさんとすれ違って、
「おはようございます」なんて挨拶しながら、
なんにもない道をてくてく歩いていると、なんだか足が重いような気がする。
やっぱり疲れてるな。
朝ご飯もお茶碗一杯しか食べられなかったし。
それでも僕の足は素晴らしく早く動いた。
入道雲が北の山の稜線に大きな影を落としている、その先を目指して。


アッバース朝や後ウマイヤ朝、ファーティマ朝など
分裂・建国を繰り返したイスラム国家は、
トルコやイベリア半島、北インドなどに確実に勢力を伸ばしていった。
その中で、ローマ帝国の後継者ビザンツ帝国の領土に侵攻したセルジューク朝は、
キリスト教の聖地エルサレムまでも圧迫したので、
ローマ教皇の号令の下に、ついに西方諸国が腰を上げ十字軍が結成された。
成功に終わった第一回遠征の後も
十字軍は、トルコ人やエジプトのサラディンなど相手を変えながら、
第二、第三、第四と続いて結局第七回くらいまでいったらしいけれど、
イスラム勢力との決着はつかなかった。

それはそうだろう。
今だってターバンを巻いたりスカーフをしたりして、
『インシュアラー』なんて言っている人がたくさんいる所を、テレビで見るんだから。
みんなやられちゃったはずはない。
あの人たちが、先生から教えてもらう歴史の先にいるのだ。

そう思うと、先生の口から語られる遠い世界の出来事も、
けっしてファンタジーの世界の物語ではなく、
この僕の生きている今に繋がっているのだと実感する。
凄いことが起きたら、
その凄いことが今の人間の社会のどこかに影響している。
だから僕はほかの科目にはないくらい、
ハラハラドキドキしながら先生の授業を受けた。
漢字がたくさん出てくる中国の歴史は、さわりだけで勘弁してもらったけれど。

「で、どうしたの」
世界史の講義が終わった休み時間、
洞窟であったことをどう話そうか悩んでいる最中に、先生の方から訊いてきた。
おかげで僕は、ビビって逃げたことを上手くごまかせずに、全部話してしまった。
かっこ悪いな。
ゲンメツしたかな。


696 :先生 中編 ◆oJUBn2VTGE:2009/08/29(土) 00:05:08 mwHzvPwJ0
先生は窓際のいつもの席に腰掛けて、真剣な顔をして聞いている。
花柄の白い服が、射し込む太陽の光を反射してキラキラ輝いて見えた。
今朝、先生は昨日僕がこなかったことを怒りもせずに、
いつもの笑顔で二階の窓から校庭の僕に手を振ってくれた。

今日もだけど、昨日もほかの子はこなかったらしいから、
きっと先生は、午前中ずっと教室で僕を待っていたはずなのだ。
二階の窓際で頬杖をついて、ぼうっと校庭を見ながら。
それを思うと、僕は胸が痛くなる。

先生みたいな若くてきれいで頭が良くて優しい人が、
こんな誰もこない山の中で、
じっと僕みたいなただの子どもを待ってるなんて。
先生は言わないけれど、きっと東京でしたいことがあったんだろう。
好きな人だっていたかも知れない。
そんなものを全部捨ててこの田舎へ帰ってきて、
夏のあいだずっとこんなオンボロの学校で、
たった数人の生徒を毎日待っているのだ。

僕が算数の問題を解いているあいだ、
時どき先生は窓の外を見ながらぼんやりしている。
そんな時、先生はそこにいるのに、そこにいないような感じがする。
その横顔を覗き見するたびに、僕はなんだか悲しくなるのだった。

「そんなことがあったの」
先生は顎の先に折り曲げた人差し指をあてて頷いた。
「顔入道さんのことは聞いたことがあるわ。
わたしが子どものころにも、男の子なんかは肝試しに行っていたみたいね。
わたしは見たことないけど、不思議な話ね」
先生はそう呟いて、あのぼんやりした表情を一瞬だけ見せた。

僕は何故か慌てて、「こんなことってあると思う?」と問いかけた。
先生は我に返ったように目を大きく開くと、
「この世の中は不思議なことだらけよ。
とくにこんな田舎にはね、生活のすぐそばにおかしな迷信や言い伝えがあるの。
学校で習う物理や算数よりもずっと近くに。
私も都会の生活が長くなっていくにつれて、忘れそうになっていたけど」

先生がふっと息をつくと、
外はうるさいくらいジワジワジワジワ蝉が鳴いていたのに、教室の中は変にシーンとした。


697 :先生 中編 ラスト ◆oJUBn2VTGE:2009/08/29(土) 00:08:00 mwHzvPwJ0
ただの岩が怒ったり笑ったりするのも、
学校では習わない不思議な力が働いているからだろうか。
ただの森を、鎮守の森なんて呼んで神社を建てるのも? 
お仕置きをするため、
暗く狭い場所へ僕を押し込める父親の顔と、
暗闇でひとりになった後で、
誰かがいつのまにか背後にいるような、あの振り向けない感じが頭の中をよぎった。

「でも理科や算数を教える先生としては、それで終わりってわけにはいかないわね」
その時、僕が感じたことをなんて言えばいいんだろう。
先生はゆっくりと立ち上がり、
僕のまだ知らないことを楽しく、そして優しく教えてくれるあの素敵な表情をした。
僕をどうしようもなくワクワクさせてくれる大好きな顔だ。

先生は教壇に立ってチョークを握り、黒板にスッスッと手を走らせる。
その指が描き出す白くて涼しげな線を、僕は息をするのも忘れてじっと見つめていた。


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