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197:くらげシリーズ「緑ヶ淵」1:2014/07/09(水) 09:27:34 ID:qlht/3vE0

街を南北に等分する川。その川を少し遡った、中流域と上流域の丁度境目あたり。
緩やかにカーブを描く流れの外側に一箇所、岸がえぐれて丸く窪んでいる場所がある。
そこは緑ヶ淵と呼ばれていた。
田舎の子供たちにとって、夏の間の川は市営プールと同義だが、
緑ヶ淵は入ると急に深くなる上に、
中では流れが渦を巻いているらしく、毎年淵の周辺は遊泳禁止区域に指定されていた。
しかし、川の外からでは渦は見えず、飛び込むのに丁度いい大岩もあってか、
緑ヶ淵はごく稀に、危機感の無い者や、
反抗心の使い方を間違えている若者たちの度胸試しの場にもなっていた。

地元の人間は緑ヶ淵で溺れて死ぬことを、『呑まれる』と表現する。
父が消防署に勤めていたので、私もじかに聞いたことがある。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――


私が中学一年生だった頃の話だ。
九月中旬、暦の上ではとっくに秋だ。
もう夏休みボケは抜けたものの、日差しも気温もまだ十分に暑かった。
その日は学校が休みで、
部活も入っておらず勉強熱心でもない私は、
朝から一人の友人を誘って、緑ヶ淵に向かって自転車を漕いでいた。
小さな頃から海川野山を駆けずり回って育ってきた私にとって、片道一時間半なんて
ちょっとした散歩のようなものだ。
ただ付き合ってくれた友人には、「川に釣りに行こうぜ」としか言っておらず、
こんなに遠出するとは思っていなかったのだろう。
しかも、川沿いの道を上流に向かって遡っているので、ゆるい上り坂がずっと続く。
緑ヶ淵に到着したとき、友人は既に青色吐息だった。

彼はくらげ。
もちろん渾名だ。
何でも、彼の家の風呂にはくらげが沸くらしい。
『自称、見えるヒト』というわけだが、その中でも、見えるモノが一風変わっている。
加えて、見た目もくらげのように青白い。
私は逆に真っ黒だ。

先に対岸の川原でそこら辺の石をひっくり返し、ケラの幼虫やら餌に使う虫を集める。
ミミズも持ってきていたのだが、その土地で取れる餌が一番釣れるというのが私の持論だ。
くらげは先に緑ヶ淵の傍にある飛び込み台としても使われる大岩の上に座って、
川の流れをじっと眺めていた。
ちなみに、彼は釣りはやらない。
ただ、水のある風景は好きなようで、海だろうが川だろうが、何時間でも飽きずに眺め続けられるそうだ。
餌を集め終えた私は、くらげの上へと向かう。
自転車を止め、ガードレールを跨ぐ。
大岩の上。真上からのぞく緑ヶ淵は、名前の通り周りの流れよりも一層濃い色をしている。

「……飛び込まないでよ」
隣のくらげが小さく呟いた。




198 :くらげシリーズ「緑ヶ淵」2:2014/07/09(水) 09:28:09 ID:qlht/3vE0

『落ちないでよ』では無く、『飛び込まないでよ』である辺り、
彼とは小学校六年生からの付き合いだが、そろそろ私のことを分かってきた証拠だ。
「心配すんな。今日は水着持ってきてねぇから」
彼が私を見る。
彼は基本無表情だが、『そういう意味で言ったんじゃないんだけど』と、その目が言っている。
「冗談だって」と私が言うと、小さくため息のようなものを吐いた。
「……何だか、脳の血管に出来た、静脈瘤みたいだ」
緑ヶ淵について、くらげが何だかよく分かるようでよく分からない微妙な例え方をした。
「気をつけろよ。落ちたら、浮かんで来れないからな」

ちなみに、釣りをする際、私はあまり目的の魚を一匹に絞ることをしないのだが、
今回は少しだけ事情が違った。
くらげの隣に座り、つり道具を広げる。
大岩から水面までは三メートル強といったところだ。
針に餌をつけて、淵の真ん中を目掛けてのべ竿をふる。

『緑ヶ淵には、何かが潜んでいるのではないか』とは、私の父から聞いた話だ。
子供を怖がらせようとした作り話かもしれないが、それが私が今日ここに来ようと決めた理由でもあった。
「ここで溺れると、死体も上がらないんだってよ」
すると、くらげがちらりと私を見て、「ふーん」と言った。
ここまで来るのに相当疲れたのか、少し眠たそうな顔をしている。

『緑ヶ淵に呑まれる』という言葉はただの比喩ではなく、
実際に緑ヶ淵での死亡事故では、遺体が上がらないことが多いそうだ。
雨や台風で増水した場合は別にして、
川の水難事故で遺体が上がらないといった状況は、そうそうあることではない。
何度か捜索に駆り出されたことがあるうちの父親は、
『巨大人喰いナマズでも居るんじゃないか』と冗談半分に言っていた。
くらげが空に向かって欠伸をしている。
まさか、『今日は人喰いナマズを釣りに来たのだ』とは、さすがの私でも口に出来ない。

アタリの感触はまだ無い。
深緑色をした水面は、円状の淵の中で緩やかに時計回りの渦を描いていた。
流れ着いた枝の切れ端や木の葉などの小さなごみが中心に集まり、ゆっくり回転している。
こうして見ると、ここが人を呑む淵と呼ばれているなどとは到底思えなかった。
北の空には縦に厚い雲が一つ、山を越えてゆっくりとこちらに向かってきていた。
ぼんやりと時間が過ぎる。
そよ風が吹き、草木が揺れ、魚は釣れず、隣の彼は船を漕ぎ出していた。


199 :くらげシリーズ「緑ヶ淵」3:2014/07/09(水) 09:29:08 ID:qlht/3vE0

何投目か。
しばらくして、あまりにもアタリが無いので上げてみると、
針に刺さっている部分は残して餌の半分だけ食べられていた。
魚が居ないわけではないらしい。
「……いてっ」
新しい餌に換えようとして、針が人差し指に刺さった。
思ったよりも血が出ていたが、面倒くさいのでそのまま餌をつけて、再び竿を振る。
絆創膏も無いので、一度指を舐めて、あとは放っておく。
隣のくらげが、眠たげな目で私の指をじっと見つめている。
「何?」と訊くと、彼は餌の虫が入ったケースに目を落として、「……何でも無い」と言った。
おかしな奴だなと思う。

その時だった。
竿が下に引っ張られた。
合わせる暇も無いほど、それは一瞬の出来事だった。
もしも咄嗟にくらげが服を掴んでくれなかったら、私は川に落ちていたかもしれない。
それほど突然で、強いアタリだった。
ギチ、と竿が悲鳴を上げる。
くらげも危ないと思ったのか、私の服を掴んだ手を離そうとはしなかった。
本当に巨大ナマズでもかかったのだろうか。
踏ん張りながら、糸の先にいる生き物が何なのか私は考える。
これほど強い引きの川魚とは出会ったことが無い。
しかもそいつは前後左右に暴れることを一切せず、ただ下へ、下へと引っ張っている。
まるで私を川へ引き込もうとするかのように。

これでは、釣りではなく綱引きだ。その不自然な引きに、一瞬背筋が震えた。
けれども、竿から手を離すことはしなかった。
この先に何が喰らいついているのか知りたいと思った。
しかし、結末はあっけなく訪れた。糸が切れたのだ。
引き込まれないよう力をこめていた私は、その瞬間後ろに尻餅をつく。
糸の先にはウキだけが残り、あとの仕掛けは全部持っていかれてしまっていた。

「大丈夫?」
くらげの問いに、私はひっくり返った体制のまま頷く。
ゆっくりと身体を起こして、半ば呆然としながら千切れた糸の先を見やる。
最初は本当に人喰いナマズでも掛かったのかと思った。
けれども私の直感は、あれは魚ではないと告げていた。
じゃあ何なのかと問われると、答えようが無いのだが。
「……釣れなくて、良かったのかもね」
川のほうを見ながら、くらげがぽつりと呟いた。
再び覗き込むと、緑ヶ淵はまるで何事も無かったかのように静かに佇んでいた。


200 :くらげシリーズ「緑ヶ淵」4:2014/07/09(水) 09:30:02 ID:qlht/3vE0

それから、仕掛けを付け替え、めげずに釣りを続けていた私だが、
二度とあの強いアタリが来ることはなかった。
代わりにうぐいが二匹釣れたので、
うろこと内臓を取って川原で焚き火を起こし、塩焼きにして食べた。
内臓を取っている際、横で見ていたくらげがぽつりと一言、
「……君って、やっぱり変わってるよね」と呟いた。
「お前にだけは言われたくねぇ」と返すと、「そうかもね」と言って、ほんの少し笑っていた。

緑ヶ淵でまた水難事故が起きたのは、その次の年の夏のことだった。
街に住む男子高校生三名が、度胸試しという名目で同時に大岩の上から飛び込んだらしい。
一人だけ撮影係として岩の上に残っていた者の証言によると、
三人が水に飛び込んだ後、
誰一人浮かんでくる者はおらず、影も見えず、水面には波一つ立たなかったという。
そのまま三人は帰らぬ人となった。

証言者が嘘をついているのではないかという話も上がったそうだが、
彼の持っていたビデオカメラには、
三人が岩の上から飛び込む瞬間と、飛び込んだ後の静かな水面の様子が映っていたらしい。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――
とは言うものの、それが一体具体的にどういうことなのか、説明できる人間はいない。
非科学的だといって頑なに否定する者も居るそうだが、
それでも緑ヶ淵は確かに存在し、今日も静かに佇んでいる。