【閲覧注意】

1915年(大正4年)12月9~14日の5日間の間に、北海道で発生したエゾヒグマによる獣害事件である。
被害者10名(うち7名が死亡、3名が重傷)という大事件であるとともに、そのあまりにも凄惨な被害状況から当時の人々を震え上がらせた。


【問題のエゾヒグマ】
・非常に特徴的な個体であったようである。
体に比較して頭部が異常なほど大きく、胸部分から背中にかけて所謂「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑があった。人間の味を覚えてしまった「人喰い熊」であり、射殺後の記録によると、大きさ2.7m、体重は340kg。だ黒褐色に金毛が混ざった雄で、およそ7~8歳だったとみられる。

「熊 事件」の画像検索結果

このヒグマは所謂「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであったらしい。
討伐に参加したマタギ(猟師)は「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測。冬眠できなかった野生の熊は命懸けの越冬になるため、非常に凶暴となる。


【事件現場となった村や場所】
・北海道苫前郡苫前村(現:苫前町)
・三毛別(現:三渓)
・六線沢 



【事件前の騒動】
・一番初めにヒグマが目撃されたのは、事件約1ヶ月前の11月の初旬、六線沢の池田家であった。
この時は飼い馬が驚いて暴れたため、被害はさほど大きくない。
当時の苫前村は開拓したばかりの土地でもあり、野生動物もよく出現していたらしい。とはいえ、足跡があまりにも大きすぎて主人の池田 富蔵は懸念を持つ。
11月20日、再びヒグマが目撃される。開拓民にとって、馬は非常に重要な存在であるため、富蔵は2人のマタギを招き入れた。谷 喜八と金子 富蔵である。
30日、現れたヒグマに銃弾を撃つが、仕留めることはできなかった。富蔵は次男の亀次郎(当時18歳)と2人のマタギとの4人で熊を追跡するものの、地吹雪により途中で引き返している。


【事件の経過】
・12月9日

三毛別川上流に居を構える太田家では、妻・マユ(当時34歳)と預かり子の蓮見 幹雄(6歳)を留守番に残し、仕事に出払っていた。(内縁の妻であるマユの本名は阿部マユ。開拓民の村では寄宿(居候)、預かり子も珍しくなかった。留守番役の2人も家で作物の選別作業を行っていた)

昼、太田家に寄宿していた長松 要吉が帰宅したところ、幹雄が独りで座っているのを発見。
覗き込むと、座ったま幹雄は死亡していた。(幹雄は食べられてはいない)
喉元が抉られ、側頭部には穴が開いていた。マユの姿はない。
ヒグマの足跡が見つかっており、推測ではあるが、窓に干されたトウモロコシを食べようとヒグマが姿を現し、驚いたマユと幹雄が声をあげたのが空腹のヒグマを刺激したのではないかと思われる。

太田家の居間の惨状にはすさまじいものがあった。
燻り続けている薪が数本転がり、血のついた鉞が落ちていた(柄部分は折れていた)。ヒグマの足跡は転々と続き、鮮血が飛び散っている箇所までついている。
マユは火のついた薪や鉞で抵抗しつつ、その場所で重傷を負ったらしい。ヒグマはマユを引きずりながら、侵入した窓から外に出たらしく、窓枠にはマユのものらしい髪の毛が絡みついていた。
土間にあった調理済の馬鈴薯は、まだ温かかったという。

実は事件直後に、三毛別の村人が太田家の窓側の農道を馬に乗って通り過ぎている。
彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の跡に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかったのだ。

当然ながら、村は大騒動となった。
幹雄の遺体を整え安置した頃には午後3時を過ぎており、村の男達は明景 安太郎(当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。
12月の北海道は日暮れも早いため、ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ない。が、苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家の蓮見家への連絡は早急に取るべきである。
蓮見家への訃報は、斉藤 石五郎(42歳)が直接出向いて知らせることになった。

ここで、石五郎の不在中は妊娠中の妻・タケ(34歳)、三男・巌(6歳)、四男・春義(3歳)の家族3人が明景家に避難することが決定する。
明景家当主の安太郎も所用で家に不在となるため、男手として要吉も同泊する手はずとなった。
(当初、使者は別の人物であったが、その者が嫌がったために石五郎が引き受けた)


・12月10日
石五郎は早朝に村を出発。
残る男達は、ヒグマを討伐しマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成したが森に入ったところ、ほんの150mほどの先でヒグマと遭遇、襲われている。
所持していた銃は5丁。だが実際に発砲できたのは1丁のみ。
ヒグマは怒り狂い、捜索隊は散り散りなったが、男達に被害はなかった。

周囲を捜索したところ、木の根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることを発見。
それらの雪を取り除いたところ、変わり果てたマユの遺体が発見された。
見つかったのは、膝下の脚と、頭蓋の一部のみ、服装からマユと判断。ヒグマは衣服ごとマユを食べていたらしい。遺体を雪に隠したのは、通常は保存食にするための行動である。


夜になってから幹雄の両親とその知人の3名が到着、マユと幹雄の通夜が営まれたが、村人が熊の襲来に怯えたために総勢9人のみの寂しい通夜となった。

この夜、ヒグマは再び太田家を襲撃する。
以下、時系列。 
(閲覧注意)

20:30頃 太田家にヒグマ乱入。遺体ごと棺桶をひっくり返し、大混乱となった。
       隠れる者、梁に登り逃げる者、入り乱れたが、石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者もいた。
       銃発も起き、近くで集まって食事していた男達も50人ほどが駆けつけた。
       ヒグマは逃走し、この時の犠牲者は0。
       人々は安堵し、明景家に退避しようと向かう。

20:50頃 (太田家襲撃からたった20分後)
       明景家にいたのは、以下の10人。
        ・不在の安太郎の妻・ヤヨ(34歳)
        ・長男・力蔵(10歳)
        ・次男・勇次郎(8歳)
        ・長女・ヒサノ(6歳)
        ・三男・金蔵(3歳)
        ・四男・梅吉(1歳)
        ・斉藤家から避難していたタケ、巌、春義の3人、
        ・要吉
       
       ボディガードの男もいたが、食事のため外出、更に太田家の騒ぎでそちらに気を取られていた。

       ヤヨは梅吉を背負いながら夜食の準備をしていた。
       突然乱入してきた黒い影に、「誰が何したぁ!」と叫んでいる。
       囲炉裏の鍋がひっくり返され、炎は消えて屋内は真っ暗になった。
       咄嗟にヤヨは戸口に向かうが、恐怖に怯えた勇次郎がすがりついてよろめいた。
       その隙にヒグマは背中の梅吉に噛みつき、3人とも手元に引き寄せヤヨの頭部から喰らいつく。
       が、直後に逃げる要吉に気を取られたらしく、ヒグマが離した隙にヤヨ親子は脱出に成功。
       要吉は腰部分に攻撃を受け悲鳴をあげたが、その悲鳴により再びヒグマは攻撃目標を変えた。
       一旦は要吉を追って屋外に出たものの、明景家に引き返し金蔵と春義を一撃で撲殺。
       巌に噛みついたところを、隠れていたタケが顔を出してしまい、ヒグマに引きずり出された。
       「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と叫ぶタケはその場で下半身から喰われ始めた。 
      

川下の明景家に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にしている。
重傷のヤヨと子供達の合流に成功し、同じく重傷の要吉も保護。人々は明景家に辿りついたが、暗闇となった屋内にうかつに踏み込むのは危険すぎる。
家に火をかける案や、一斉射撃などの意見が出たが、子供達が生きているかもしれないとヤヨが必死に反対した。この間、ずっと肉と骨の咀嚼音と、タケのうめき声が辺りに響いていた。
結局は二手に別れ、裏口から空砲を撃ち、入口から逃げてでるヒグマを仕留める作戦に出るが失敗。
ヒグマは逃走した。

急いで松明を手に明景家に救助に入ったが、天井まで飛び散る血の海の中に、無惨な3つの遺体があった。
タケは体の半分を喰われており、胎児は引きずり出されていたが喰われてはおらず、まだ少し動いていたという。(1時間後に死亡)
胸と肩を噛まれ、左大腿部から臀部にかけて骨だけになっていた巌はむしろの下に隠されていた。
(巌は母の惨死を知らず、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらしつつ20分後に死亡)
隠れていた力蔵は無事であったが、殺戮の一部始終を目撃している。
ヒサノは失神していただけで無傷で済んだ。

この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。


・12月11日
六線沢ではすべての住民が三毛別分教場に避難。固く戸締りをした三毛別の各農家はヒグマ避けに常に炎を焚き続けた。
もはや住民だけでは対処しきれず、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議。
一方、斉藤石五郎は、役場と警察に太田家の事件を報告し前日に苫前に宿を取り、この日に帰宅。
妻子の受難を知り、呆然と雪上に倒れ伏し、ただ慟哭したという。


・12月12日
北海道庁警察部保安課から討伐隊の組織が指示される。
一方、死亡者の検死のために現地に派遣された医師は、ヒグマの糞を発見、中から人骨・髪の毛・未消化の人肉を見つけている。

討伐隊はアイヌ達も協力も得ていたが、ヒグマの姿すら捕えられず、誘き出す前代未聞の作戦を行う。
ヒグマの、獲物を取り戻そうとする習性を利用した作戦である。

勿論賛否は激しく別れ、村民や遺族らの罵倒を覚悟した作戦であったが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。事態はそれだけ切迫していたということだろう。

こうして犠牲者の遺体を餌に、ヒグマをおびき寄せる作戦が実行された。
家の中に胎児を含む6遺体を設置、銃の扱いに慣れた6名(他に交代要員1人)が補強した梁の上に潜みヒグマを待つ。
森の中からヒグマは姿を現したが、家の手前で立ち止まり屋内を警戒、家の周囲を何度かうろつき回った後に引き返していった。その後も現れず、この作戦は失敗に終わる。


・12月13日
とうとう旭川の陸軍にまで話が及ぶ。

一方、問題のヒグマは村人不在の家々を荒らし回っていたらしい。
鶏を喰い殺し、保存食を荒らし、さらには服や寝具などもズタズタになっていたという。
特に女性の使用していた枕や、温めて湯たんぽ代りに用いる石などに異様なほどの執着を示していた。
だが、その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた事が伺える。
無人であるからか昼間でも大胆に人家に踏み込むなど警戒心も薄れ始めていた。
行動域もだんだんと下流まで伸び、討伐隊本部にまで近づきつつあった。

この日の夜、本格的に組織された討伐隊本部の川の対岸に熊らしき影が発見されている。
発砲後、影は逃走。


12月14日
早朝に一行は対岸を調査、そこにはヒグマの足跡と血痕があった。即座に討伐隊は動き出す。

ところで、討伐隊とは全く別に、10日の夜の惨劇を知り、そのまま深夜の山に分け入ったマタギがいる。山本兵吉(当時57歳)である。
彼は若い頃鯖裂き包丁1本でヒグマを倒したという逸話を持ち。ロシア製のライフルで多くの熊を仕留めていた人物である。山本が11月のヒグマ出没時に登場していれば、その後の惨劇は起こらなかったとさえ噂されていた。

この時、平吉は討伐隊に入ってはいたが、一行と別れて単独で山に入っていった。
平吉は頂上付近でヒグマを発見、ヒグマはふもとから登ってくる討伐隊に気を取られ、兵吉の存在には全く気づいていなかった。
平吉は音をたてぬよう慎重に20mほどにじり寄り、樹に身を隠しつつ銃を構え、撃った。
一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。
しかし、ヒグマは怯むことなく立ち上がり兵吉を睨みつけたという。兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目はヒグマの頭部を射抜いた。

1午前10時、討伐隊はヒグマの亡骸を発見。ついに、人々を恐怖の底に叩き落したヒグマは駆除された。


【熊風】
・終了してみると、討伐隊として動員された人数は200人。

12日からの三日間ではのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇である。

ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろし、当初は馬ぞりに積まれたが馬が暴れたために人力でそりを引いたという。

余談ではあるが、アイヌの信仰では熊は「山の神」とされ、熊を殺すと空が荒れると言い伝えられている。男達がそりを曳きはじめると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。
事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わり人々に強く吹きつけた。俗にいう「熊風」と称される。


【その他の証言】
雨竜郡から来たアイヌの夫婦の証言
    ・このヒグマは数日前に雨竜でも女性を食害しており、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出るはず
あるマタギの証言
    ・旭川で女性を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかるはず

実際に問題のヒグマを解剖し胃を切開したところ、赤い布と肉色の脚絆も見つかっている。


【その後】
・この事件は、その後も人々に大きな影響を与えた。

頭部に傷を負いながらも気丈に振る舞ったヤヨは回復したが、背負われたまま噛みつかれた梅吉は、後遺症に苦しみつつ2年8ヶ月後に死亡。この少年を含めると事件の死者は8人となる。
(雨竜・旭川の被害女性は状況証拠のみの為、公式には被害者として認められず)

六線沢区長の大川与三吉の息子・大川 春義(当時7歳)は、その後名うてのヒグマ撃ちとなった。
犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いを立て、62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を三渓(旧三毛別)の三渓神社に建立している。
(春義の息子・高義も同じくハンターとなり、父も追っていた体重500kgの大物ヒグマを仕留めている)
山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950年に92歳で亡くなった。



事件は解決しても、人々の心理的恐怖は消えなかった。
頼る伝手のある者は早々に六線沢を去ってゆき、残された村人は何とか破壊された家屋を修理して越冬したが、春になっても気力を取り戻すことができず、1軒のみを除いて集落は散り散りとなった。
(残った1軒は襲撃事件のあった場所から数キロ離れた辻家であり、被害者達の応急処置を受け入れた家である)


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