津山藩とは、現在の岡山県津山市地方に位置しており、美作国の大半を領有していた大藩。
その歴史は古く、波乱に満ちており歴史的価値も高い。

【藩の成り立ち】
・1600年(慶長5年)備前岡山藩主小早川秀秋の死去と跡取りの不在により廃藩。
・1603年(慶長8年)信濃川中島藩より森可成の子忠政が入部し、津山藩として立藩。
・1698年(元禄11年)越前松平家宗家の松平宣富が入部、以後廃藩置県まで松平氏が統治する。

異常天候が続いたせいもあり、松平氏の藩政時代は政情が安定せず、元禄一揆(高倉騒動)、山中一揆、幕末頃には改政一揆と百姓一揆が頻発している。

中でも山中一揆(1726~27年・享保11~12年発生)は、郡上一揆、三閉一揆と並ぶ大規模な百姓一揆であり、その犠牲者や悲惨な農民らの背景も含めて語りつがれる。
(山中とは一揆の蜂起した地帯の名称。余談ではあるが、この一揆事件は映画化されている)


【一揆の起きた背景】
・政治的背景
津山藩は、諸事情により石高(経済)が安定しづらかった面がある(藩の縮小と拡大)。当時幕府は「享保の改革」に乗り出しており、津山藩も倣っていた。

1726年11月、津山藩主松平浅五郎が11歳で死去。
藩は養子を立て当家跡取りとしたが、10万石の石高は5万石に縮小され、取り上げられた地は天領(幕府直轄の地)となる。

・気候的背景(享保の飢饉)
1701年:雹(ひょう)が降ったために凶作。
1702年:美作・備前・備中に暴風雨・洪水・高潮。津山藩内に大きな被害をもたらした
1708年:6月に雹が降り、作物が駄目になったという。
1710年:津山地方に地震が起き、死者が多く出た。
1716年:大飢饉発生。飢民は1万2,000余人とされ、津山藩は救護所を設けている。
1718年:5月に霜が降る。
1720年:雨が降らず水不足が続き、その後は干ばつ、冷害と続く。10月に村民らは嘆願書を提出。
1721年:前年の作物不足に加え、豪雨災害。
1724年:大雨、洪水被害。
1725~6年:全く雨が降らず大干ばつとなる。
   

念のために付け加えておくと、異常気象はこの地方だけではなく、日本全体が巻き込まれ各地で悲惨な事態が相次いだ。
それでも人々は必死に耐え、年貢などもしっかり納めていたという。

一揆のキッカケとなったのは、天領として差し押さえられる地方が決定し、その地の村民が納めた年貢の行方を巡っての不始末である。
経済の逼迫していた藩(注)はそれらを売り払い現金化することで存続を維持しようとし、それを知った農民らが反発、不信感と不満が爆発したとされている。


【一揆の概要】  
・上記の通り、一揆は1726年の12月から1727年の1月まで。つまり、年末~正月にかけてである。
一揆は各地に広がり鎮圧にはキリがなかった上、天領として幕府に上納する以上、津山藩としての面目もあったと思われる。
また、
(注)
で示したが、この事態に望むと望まずとも関わらず大きく関係せざるを得なかったのが、各地の庄屋の家である。
(場合にもよるが、通常年貢(米)は上納されるまで各庄屋宅にて保存される)

新年早々には山中地方に鉄砲などで武装した鎮圧隊が派遣され、行く先々で農民達は捕えられ、斬首のうえ首は晒されたという。

一方、村民らも彼らなりの武器を持ち抵抗したが鉄砲隊にはかなわなかったらしい。女性や子供も巻き込まれた上での悲惨な一揆壊滅であった。

一揆の首謀者とされた者が捕らえられ、集団が瓦解したことにより騒動は沈静化に向かった。
首謀者は津山城下を引き回しのうえ院庄滑川刑場において磔刑となり、処刑された農民らは51名。(うち20名が同一の村の者である)


農民の一揆に対し、鉄砲や大砲といった「飛び道具」で鎮圧、さらに藩士たちが村民らの内部分裂や告発を促すなど、なりふり構わぬ態で鎮圧したということは、それだけ抵抗する側も必死であったということであろう。
その後も関係者の密告、摘発が続いたことからこの事件の悲惨さと鎮圧隊に対する恐怖が伺える。


現在も、一揆の首謀者とされた徳右衛門御前、大林寺妙典塚、首なし地蔵、社田の義民の墓等、供養塔が各地に残されている。


*これらの記事は管理人が独自に調べたものであり、力不足部分も承知している。
もし明らかな間違いや思い違いに気づいた方がいれば、ご指摘願いたい。
犠牲となった方々のご冥福を心より祈る。


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